今日、地下鉄を止めてくれた人へ

大学に入るまで電車通学たるものを一切してこなかった温室育ちの僕も半年間だけ電車通学をしたことがあった。そこにあったのは際限なく押し寄せる絶望的な混雑と、暴力といっても過言ではない乗り換えのだるさだ。あれは何度経験しても慣れるものじゃない。もちろん電車に乗る度に太ももがけしからん女子校生が目の前に座り、スカートをたくしあげてくれるというならば、がむしゃらになれる。無論そんな天変地異が起こるわけもなく、現実においては、大仏みたいな髪型をグリグリに決めたオバサンの頭部を左の肩で支えるのが関の山であった。ちょ、マジパーマがほっぺたに当たって気持ちわるいんすけど…。

電車通学をしているとちょくちょく電車が遅れることがある。僕は通学の際だろうが出かけたときだろうが5分、10分程度の遅れは全く気にしない。中にはJRの職員に対してやたらめったら罵声を浴びせたりして尋常じゃない剣幕で頭に血を昇らせる人もいるだろう。でも僕は全く気にしない。一度定期テストのときにJRが遅れてテストを受けることが出来ず、追試を受けるハメになったけどそれでもJRに対して怒りは感じなかった。

電車の遅延に対しては上述のように気にもとめないわけだけど、そもそも電車に乗るのが好きじゃないので電車通学には半年で別れを告げることにした。つまりは大学の近くに引っ越したわけです。最近では就職活動以外に電車に乗ることと言えば宇田川町に行くときだけで他は家に引きこもって血眼になってマウスをポチポチしてるだけですからね。

もちろん電車が遅れても怒りを覚えないというだけで決してハッピーな気持ちになるわけではない。もし電車が遅れたことで何かしら幸せを感じている人がいたらその人は頭のねじをきつく締め直し、猛省を促したい。

でも今回は今までとは次元が違った。いつものように地下鉄に乗って帰宅しようとしたときのことだ。豚小屋みたいにパンパンに鳴った電車内で発車を待っていたのだけど電車がなかなか出ない。これは遅延か? と思っていると渋いオッサンの声でアナウンスが流れたので耳を傾けた。

「乗客に急病人が出たため‥うんぬん…なんでんかんでん

これは仕方ない。いまその身を冒されている急病人を誰が攻めることが出来よう。そう思い事態が収縮するのを静かに待っていたのだが、その静けさをぶち破って未曾有の恐怖が僕を襲ってきた。

猛烈に、気が狂うほど猛烈にうんこが僕を襲ってきた。武富士の取り立てばりに肛門というドアを激しくノックするうんこ達。この黒の組織どもを僕の比較的弛緩した肛門で自宅のトイレまでせき止め続けるのは不可能に近いレベルであることは僕のレモンの種サイズの脳みそでもすぐに解った。というか脊髄反射的に理解した。帰宅ラッシュ時の有楽町線で万が一脱糞なんてしてしまったら人生・イズ・エンド。某巨大掲示板とかに書かれ、顔とか晒されるハメに…。

しかし、 ──不謹慎な言い方になってしまうが── コーウン幸運なことに電車はどっかの誰かが急病に襲われたおかげでまだホームを出るに至ってない。これは千載一遇のチャンスだ。後から考えてもこのときの判断を鈍らせたら僕は間違いなく漏らしていたと思う。僕は付近の乗客に「うんこなんて全然したくないんだからっ!!」とツンデレ的にアピールして電車から降り、足早に階段へ向かう。階段は「走るまではいかないし、焦っているのがバレない程度だけど最速の歩行速度」で登った。と同時に獲物を狙う肉食動物のような眼でトイレを著すポップな男女のシルエットを探す。

「!!!!」

運良く駅の階段を登りきって左へターンしたところに聖域を見つけることができた。多少の芳香はこの際気にしないし、問題じゃない。この時点で僕は全神経を肛門括約筋に集約していたし、顔はおそらく般若とか夜叉に近いものに変わっていた。気が狂うほど猪突猛進型便意の弾丸と化した僕は、そのまま最も最短距離に存在する大便ブースに猪のように直進して駆け込んだ。返す刀でしっかりとカギをかけ、荷物をフックにかける。一度でも行程をミスったら漏るっ!! 恐怖が脳裏をかすめる。この間も肛門括約筋、さらには臀部の筋肉まで総動員して組織の氾濫を食い止める。堤防決壊がすぐそこに迫っているのは明白だった。

け…けつがツりやがるっ!!

「…………!!!!!!!」


もしあのとき、急病人が出ずに電車が走り出していたら…。僕は地下鉄を止めてくれた名もなき急病人に心から感謝している。本当にありがとう。数分後には走り出していたことから大事には至ってないとは思いますけどどうかお大事に。